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余談・自分の話

2017-05-28

 

永見塾は、私の人生である。

だから、今日は自分の話をしよう。

 

ブログを読んでくださるのは、何も塾探し中の方ばかりではないだろう。

疲れている方、何か困っている方、塾の生徒さんのご父兄。読んでくださる方にとって、勇気になる言葉が書けたらいい。

 

 

私は新宿区の落合で育った。生まれは神田。3代目の生粋の江戸っ子だ。父は深川の神童と呼ばれた秀才だったそうだ。昭和4年生まれ。

終戦の時に16歳。まさに少年時代を戦乱の中で過ごしたことになる。母にしても同様。昭和6年生まれの母は、6歳離れた幼い妹と、親元を離れて疎開をしている。

「東京モン・・」と揶揄され、いじめられたそうである。

 

この2人が、戦時中を多感な少年少女として生き抜いた話は、私に大きな影響を与えている。

3月10日の東京大空襲を、父は火の海の東京で経験した。熱く煮えたぎった隅田川に、灼熱に耐えかねて飛び込む人を、何人となく船に拾い上げたそうだ。

母は、14歳。翌朝、東京が焼けたと知らされ、親、姉妹の全滅を覚悟したそうである。幼い妹を抱え、これからどうやって生きていくか、そればかり考えたと言っていた。

 

父は戦時中、尋常小学校の級長だった。学徒動員に連れて行かれることに反論し、「学生の本分は、学業である。」と言って、思いっきり殴られたと聞いた。

毎日毎日、鋲を打つ単純作業の中に、目的のない作業の醜さを嘆いた勤労日誌が残っている。生活、普通の生活が、いかに美しいか、彼はのちに書いている。

戦後は旧制第一高等学校(今の東大駒場教養学部)に入学、寮歌を歌い、人生を語り、麻雀をし、ドイツ語で恋文を書く、そんな学生生活を謳歌している。寮生活はたったの一年限りだが、

「阿呆ばかりが、よくも集まったものよ。」と互いに笑い合いながら、人生を語り、文学を語り、日本の将来を案じて語り明かした。そんな至高の一年だったと聞く。

それから一年浪人して、東大文一に父は進む。よく、幼い私に、「お父さんは失敗したなぁ、、。文三に行けばよかったよ。格好つけて法学部に進んでも、好きだったのは文学なのだからね。」

そう語っていた。「あなたは、同じ失敗をしちゃダメだよ。好きなことをやりなさい。一生好きで勉強し続けることが、幸せなのだよ。」と諭してくれた。彼の東大での授業のノートが、

今、私の手元にある。当時多くの学生が聴講希望で殺到した、吉岡教授の世界史のノート…。人間の歴史をどう見るものか、、淡々と記されている。達筆すぎてそうそうは読めない、当時の宝の言葉が蘇る。

 

 

私自身は、幼少の頃から、猛烈な寂しがり屋だった。母は、10代の決心が影響したのか、女子医大に進み、小児科の医師になっていた。

当時は、母より上の年代の女医さんで、結婚した人はほぼいなかったと言っていた。母自身は33才で結婚。もちろん当時としては、極めて高齢だ。

一旦退職し、年子で子供を産んだ。子育てをしていた際に、ふと同僚の活躍のニュースを耳にして、悔し涙を流したというから、根っからの仕事好きなのだろう。

私が2歳の時に復職をし、以来勤務医を15年は続けている。だから、私は、いつも母恋しい子供だった。その思いは、いつも空振りに終わったけれど。

なんでも独りでやろうとするindependenceはこれにより得た。無論勉強もだ。家にはお手伝いさんがいたが、子供には目もくれず家事をしていた。

週に3回午後になると、おじいちゃんが来てくれた。80過ぎの高齢なのに、一緒に和室で「高オニ」をした。肉親の温かみを家に置いておこうという母のideaは、情緒の安定にありがたかった。

 

 

こんな生い立ちであったお陰か、私はよく本を読んだ。気が遠くなるほど長い1日が続く夏休みは特に、学校がないことが苦痛だった。母の出勤に合わせて、私は7時に起こされる。あまりにも暇な毎日。

父の本棚のある書斎に行っては、そこにある読めそうな本に、次々に手を出す。それが楽しみだった。今でもよく覚えているのは、「処女峰アンナプルナ登攀記」「パプアニューギニア探検記」。異質な空間であるジャングルを突き進む話、苛酷な雪山での一か八か、命懸けの一歩。

これらの本が、読書の本質を教えてくれた。異次元、異文化体験。これは日々の楽しみになった。

 

 

子供の教育において、与えすぎはどうかと思う。

特に、「やるべきこと」を指示し続けるのは、実は大変危険なことだと思う。ぼーっとする時間、何をしていいか、よくわからない時間、そういう空白の時間にこそ、

子供の創造性が発揮される。子供は、つまらない時間を面白くする天才なのだ。おもちゃや、ゲームや、お教室はいらない。 紙と鉛筆。石ころと葉っぱ。

そんなもので十分に、子供は遊びを発明する。私はブロック遊びが好きだった。だが、今のレゴブロックには、違和感を禁じ得ない。「なんでお手本があるのか。」

今の世の中、子供達は「暇な時間」を持っているだろうか。私はこの点をとても危惧している。

暇は最高のtriggerなのだから。暇を与える教育をしている人を、私は尊敬している。

 

 

小学校では学業はよくできた。

何しろ学校だけが楽しみなのだ。平日の家はつまらないし、習い事もピアノだけ。何があるわけでもない毎日なのだから、学校での学びが最高の出会いとなる。

あぁ、面白い!!こう思って聴く授業は、それは頭に入るだろう。作文が得意だった。それも当然と思っていい。だって、「いつも聞いてくれる人を求めていたから。」

ねぇねぇ、、と話せる母、父。代わりに私は作文を書いた。先生のコメントだけが応えてくれた。

 

 

4年生の時に「ビルマの竪琴」を読んだ。この感想文がコンクールに出る。

前年に読んだ「ガラスのうさぎ」は、悲しく怖すぎた。しかしながら、再度、意を決して読んだ戦争の本だ。

映画を観、劇も観た。読書のさらなる深みを知った。「読んだ後に、考える」ということだった。

 

こんな私が6年生になった時、当時の公立小学校の担任の先生から、私は中学受験を勧められた。なんともおかしな話かもしれない。

私が実母の様に慕っていた恩師は、私のことを思ってくれた。「競争に勝てる子かもしれない。でも、普通の学校に行かせてはいけない。あなたは自分の子を見ていない。」そう母に説教をしたそうだ。寂しさを口にすることができずに、円形禿を作ったり、過敏性の腸炎になっていた私を、先生は救ってくれた。勉強ができることが全てではない。そういう教えを受けた。

 

いつも綺麗な心でいる。そういって褒めてくれた。

 

「感受性と観察力」私が勉強において最も大切にしていることは、この先生が授けてくれたものだ。

彼女は今も、私の原点である。私の仕事、子育て、生き方の原点なのだ。

「子供は一人一人違う。だから、それぞれに違うことをする。真の平等とはそうしたもの。」こう、生徒たちに説いていた。

 

私は、かくして勉強をし、雙葉学園に進学した。自分で理科と社会を500ページずつをノート一冊にまとめる。これが私の受験の勉強法だった。

なんでもいいから、一冊全部を見る様に。誰からも習わず、自分でやってご覧。これが敬愛する先生のお言葉だった。偉大な先生は、裁量が違う。「マサエチャンナラデキル」こうつけ加得ることを忘れない。さすがに必要と、算数は塾で習う。国語は勉強の必要がなかった。これには大いに助けられたと思う。今も私が読書を強烈に進めるのはここに理由がある。

 

「受験」はどんなものであれ、「試験」は何を扱うものであれ、どれだけ本を読んできたかが、決定打になってしまうのである。小手先ではなく、読書によって培われた力は、覆しようのない力なのだ。ここでもまた、子供に「暇」を与えているかが問題になる。  確かに、お友達と遊ぶのも大事なことだ。協調性なくしては、現代は生き抜けない。ただ、個々の力あっての協調性だということが、おざなりになってはいないだろうか、、、。powerfulな個は、絶えず世間から求められている。暇は、なくてはならない個の源だ。

 

 

その後、週に一回、幻の名塾「日本進学教室」に通うことになったのも、この先生のおかげだった。受験票を用意してくれたのは先生だった。ここは楽しかった。毎日曜だけの塾。東京都中から集まる才媛才子に揉まれて、数列や数の面白みを知った。

 

民話に、キツネやお地蔵様や、いろいろなものが不思議を起こす話がある。志賀直哉の「小僧の神様」さながら、私にとってこの先生は、仏様か女神様だった。どうしてここまで私を知っているのだろう?なぜ、こんなに私に道が示せるのだろう?頑張っていれば、神様がプレゼントをくれる。そう信じる様になったのが、この先生の存在だった。

 

中学高校での日々は、毎日が最高の授業の連続だった。面白すぎる、と思った。あまりにも素晴らしい授業を受けて、満足至極。

ある日、ふと、「他のお友達が誰一人学校に来なかったとしても、私は一人でもここに来よう。」そう思ったことがある。素晴らしい授業は、授かりものだ。その内容の一つ一つを、今、塾で教えている。永見塾では、全教科を、この授業体験を元に作成したテキストで行なっている。

 

日比谷高校に学んだ息子が、よくこう言っていた。

「基本的に、日比谷の先生は、お母さんと同じことしか言わないよ。」

日比谷の先生には申し訳ないし、口幅ったい言い方だが、要は、なにが素晴らしいといえば、雙葉の授業が素晴らしかったのだ。もちろん日比谷高校も。

 

 

良い学習体験は貴重だ。また、良い人との出会いこそ、人生のご飯だ。エネルギーをもらい、扉を開ける。それには、人との出会いが要る。

 

 

永見塾は私の人生の場だ。

私の目標は、出会いをproduceすることだ。

一人一人の子供さんに、縁あって出会うことが出来た。

本当に、みんな可愛い。

そしてその子たち一人一人を、待っていてくれる先生がいる。

その子だけの仏様、女神様。そういう存在に出会えたらいい。

最良の出会いをもってほしいと願う。

そうした思いで、進路相談をする。

 

私はその後、千葉大学の医学部で学んだ。さんざん英語の勉強に明け暮れ、シェイクスピアにハマり、英語ばっかりに打ち込んでから、自分の性質に気がついた。

理系の方がいい。そう思ったのは高校2年の終わりの時だ。そこから方向転換ができたのも、雙葉学園の素晴らしいところだと思う。

大学入試に向けても、自力で参考書をまとめることをした。同じ手を使えばいい。そういう自信を持っていたことが、努力の方向に確信を与えた。中学受験の思い出が味方したと思う。

 

 

6年学んで医師免状を得たが、私は入局しなかった。入学直後に父親を亡くし、人生を考え直したかった。その思いが6年間つきまとった。

今も、その時の疑問には答えが出せていない。「人間の幸せって、何だろう?」

 

ただ、私にとっての千葉大学医学部は、大きな学びの場であったし、かけがえのない出会いのあった場所だ。その人に会うためにそこに行ったんだ、と思える人に出会った。

それが生きる支えになっている。大学とは、人と出会う場所だよ。私はいつも、そう言ってきた。

 

人とはどうやって生きていくものなのか、、、それはまだまだわからない。どうしたらいいか、途方に暮れる。

あんまりわからなくて、嫌になってしまうこともある。どうしたら、いいのかな、と。

 

 

ただ、そういう中でも、「今日勉強できる幸せ」を、父や母から学んできた。

生きていて勉強できるんだから、幸せだよね。

そういう塾になっている。

 

わからないことだらけの世の中で、何とか必死にすがりついている自分がいる。自分がすがりついているものが、何であるかもわからないのに。

どうやっって生きていくのか、まだまだ勉強しないといけない。

 

勉強はずっと続く。

 

 

 

 

 

 

 

by Nagami Prep School 2017-05-28