ながみ塾 Nagami Prep School

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2022.12.08これからの学び。

現代の子供たちはこれから、何を学んでいくのでしょう。
何を学ばないといけないのでしょう。


今年4月の東京大学の入学式。総長様の祝辞にこんな言葉がありました。
起業」です。「東京大学は、起業する学生を支援する。」意外な祝辞の切り出しに、思わず惹きつけられました。


起業は個人の成功と利益を追求するだけのものではない。
起業は「それがもしあったら、こういう誰かの役に立つだろう。」という他者へのケア=関心を持つ心に立脚する、という話でした。


それには、起業する人の中に、「他者を想う想像力」が必要である。「誰が、どんなふうに困っているか。何を求めているか。」その想像力こそが知性であると、総長様は語られました。静かな語り口の中に、凛とした強さがありました。


ワガママじゃダメなんだな。私の感想は、まずこれでした。一生懸命に自分のために勉強してきた新入生に、「もう一つ大人になってくれ。」と突きつける、素晴らしい祝辞でした。








仕事、とは確かにそういうものです。自分がしたいことをするわけではないから。でも人は、でき得る限り自分が志した仕事をしたいわけで、では、その上で自分の好きや楽しいを、どう他者の役に立てるのかなのですね。


16年前、私には、こんな塾があったらいいな、という強烈なイメージがありました。


6年生の時に、4人の男の子に紅一点の私、5人で習った算数。チームを組んで、仲間で学んでいく楽しさ。だんだん仲良くなって、共に学ぶ同志になる。勉強で仲間ができる楽しさです。良くできる子への憧れもあり、上手く出来なくても明るく優しい子への尊敬がありました。


昭和の子供は、路地や公園で、年齢を超えた集団の中で毎日、それはよく遊んだものでした。どこかで誰かが遊んでいると、騒ぎ声や歓声が呼び水になって、次から次へと子供が集まって来ます。「入ぃれぇて!」と言えば、誰でも入れる空間が、そこにはありました。ドッチボール、高鬼、缶蹴り。そうしたら遊びの中で、子供たちは年長者に憧れ、尊敬し、真似て育ったものでした。それが昭和、だったのです。


子ども時代の寂しさ、無邪気な仕事人間の母、家政婦さんとの退屈な日中。習い事も大してなく、知的に解放されなければ、多分何もない毎日。そんな中で勉強することが「退屈しのぎ」であったという強烈な事実。それが私を作りました。


一方、5人の子供を育てて、ずっと見てきた現代の子供たちの遊びは、私の目には「貧弱」に映りました。思わぬ出会いがないし、偶然がない。Apoをとっていないと、放課後に遊べない。 信じられない。これじゃぁ、憧れる人に会えない、、。


ながみ塾では、おかしな授業をしています。まず授業は講座制です。どの授業に来てもいいよ、と言います。内容とレベルもよく説明します。「自分で考えてねー。」「自分に何が必要か、よく考えてねー。」乱暴なようですが、小学生も、中学生もニヤっとするんですよ。ママが申し込んだわけでもなく、パパがコーディネートしたわけでもない。「あなた、どうなりたいの?」そう突きつけられます。「最終的にどうなりたいのか。」と考えないと、授業が取れないのです。それがワクワクの元です。目的地を作る。嬉しそうに悩みます。「将来のことを何も考えていなかった!」と嬉しそうに。思うに、ここに「憧れ」っていう作用があったら、もっといいかな。


基本を大切にする子。ノートのレイアウトが上手な子。小さい頃から、ほんとうによく辞書を引く子。ものすごく綺麗に英語の文章を写してくる子。綺麗に英語を話したり、数学の答案が素晴らしかったり、文章の朗読や、国語の読解が切れ味抜群だったり。そういうお友達の姿が目に見える形態を、この塾ではとっています。対面デスクです。生徒たちは、ホワイトボードでもなく、私でもなく。互いに向き合っています。いつもみんなの笑顔を見ています。語り合っています。


学年を超えた英語や国語。夏休みには小学生でも、中学生に混ざります。「凄いね、偉いね。」と声をかけられ、嬉しそうな子がいます。それは、あの路地端のドッジボールと同じなのです。憧れの後に、続く人が出てきます。人に人が続いていく、そういう姿があります。


小学生の皆さん、中学生の皆さん、高校生の皆さん。私たちはこれからも、何をまなばなければいけないのでしょうね。考えてみましょう。自分がどうなっていかないといけないか。何ができるようになったらいいのか。それがわかっていくことが、勉強の大きな意味だと思うんです。だから勉強って、まさに考えること。その時、憧れの先輩がいたらヒントになりますよね。仲間がいたら勇気が出ますよね。その方が楽しいでしょう。


実は、東京大学祝辞の中で、もう一つ心に残った言葉は「迷い」でした。東京大学の最も特徴的な進路振り分け制度が、迷いの時間を支えています。自分の専門を決めるまで、教養学部で「迷わせる」こと。迷っていいこと。変えていいこと。これが子供たちには、いいえ、どんな人にも大切なことでしょう。迷っていい自由を保障する仕組み。それを携えた社会こそが、強い社会だと私は思います。日本はまだまだですね。塾でいろいろな憧れの人に出会って、大いに迷ってください。自分が意外と数学ができたり、英語ができたり、国語が良かったり、、。皆しょっちゅうびっくりしているんですよ。



こんな感じで、日々クラスを運営しています。興味のある方は是非、お訪ねください。お子さんがいらっしゃらなくても構いませんよ。勉強は誰がいつしてもいいものだと思いますし、お喋りは私の勉強になります。歓迎です。

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